DIRECTOR'S INTERVIEW
企画のスタートは「家族の話」
団塚唯我監督にとって『見はらし世代』は、文化庁主催の〈ndjc:若手映画作家育成プロジェクト2021〉に参加した短編『遠くへいきたいわ』に続く長編デビュー作となりますが、どちらの作品も母の不在を題材としています。今回の企画の立ち上げの経緯を教えてください。
ndjcの短編『遠くへいきたいわ』を監督した直後から、やっぱり長編を撮ろうと思い、当時からぼんやりと頭の中にあったのですが、具体的に構想を練り始めたのは2022年の5月あたりから。それまでにも似たようなモチーフを扱っていたのですが、もうちょっと家族の話をきちんと描いてみようというのが、企画のスタートとなりました。最初に取り掛かったのは夏編とみんなで呼んでいる、冒頭20分の家族旅行のエピソード。中堅どころのランドスケープデザイナーのキャリア形成と、それにまつわる家族の物語から話を始めたかったんですよね。脚本を描いている時点から、基本的に成長した主人公は黒崎煌代くんに任せようと思っていたので、普通のアプローチなら、夏編も黒崎くんが演じる蓮の視点で描くのがベーシックな感覚ではあると思うのですが、僕は家庭環境が子供に与える影響がすごく強いと考えていて、だからこそ、冒頭は夫婦の話から物語をはじめ、ふたりの亀裂をしっかりと描きたかったという考えがありました。
脚本を書き始めたころは20代前半で、まだ結婚もされていないのに、「この三日間だけは家族に集中して」など由美子の夫、初への台詞が切実でリアルで驚きました。由美子の裏設定として、初と同じ職場にいたというのは台詞からわかりますが、彼女もランドスケープデザイナーを目指していて、出産、育児で専業主婦となったということでいいのでしょうか?
そうですね。由美子の世代では、特に仕事と家庭の両立は難しかっただろうという裏設定はありました。ただ、由美子の人物像は、井川遥さんに決まった段階で、その輪郭が突如としてグワっと鮮明に来る感覚がありました。冒頭のエピソードでの由美子の台詞は、人によっては意外とリアルに感じさせない台詞に聞こえる可能性もあるかなと心配していたのですが、井川さん自身が子育てを経験されており、井川さんの力がすごく大きかったと思います。
溝口健二の『雨月物語』において、田中絹代演じる宮木という女性が、戦乱に乗じて富を求める夫・源十郎に「親子三人が幸せに暮らせればそれで充分なのに」と呟きますが、その声は届きません。『見はらし世代』は、『雨月物語』にある重大な仕掛けも含めて受け継ぐ要素がありますが、その構成は早い段階から構想していたことですか?
いや、当初は、母親が中盤からもう一度出てくることは考えていませんでした。残された家族の話を描こうと思って脚本を書いていたんですが、後半のサービスエリアでの初、恵美、蓮の再会の場面のところで行き詰まってしまった。この映画はどちらかというと常に母親が家族の姿を見ているような感覚で脚本を描いているところがあって、母親がいる上の世界と、他の家族がいる下の世界というモチーフが頭の中にあったんですが、ある瞬間、映画にしかできない奇跡的な出来事が作れるんじゃないかと思い至り、唐突に落ちてくる電球のアイディアを思いついてからは、すぐでした。
舞台は大規模な再開発が続いている渋谷を選ばれていますが、その理由は?
渋谷という街を題材にしようと思ったのは、僕の父が過去に渋谷の再開発プロジェクトに関わっていたというのが大きな理由の一つ。もうひとつは、社会問題としての渋谷の再開発の在り方が頭にありました。例えば、渋谷の公園で寝起きしていた路上生活者の人たちを描くにあたり、カッコ付きの『渋谷』という一般的なイメージからは逃れられない。それはともすれば凡庸な表現になりえますが、今回はそれを真正面から描いて普遍性を作品に持たせられないかと考えました。どの映画もそうでしょうけど、個人的な思い入れを描くと同時に、それをどの人にも落とし込めるように普遍的であるということを両立させている作品を作ることが、映画を映画たらしめると考えているので、僕にとっての描くべき街が渋谷であったということです。
撮っているときに考えていたのは、人が街を作るのと同時に、街が人を作っていくということで、人類がその影響を及ぼして環境が変わっていく側面がある一方で、出来上がった街の環境によって人が作られていくことはあるだろうと。渋谷を歩いている人たちは街の一部であるという感覚をすごく大事にしながら撮りました。
渋谷という街の切り取り方の鮮やかさや、蓮とともに街を浮遊していく感覚や世代観ギャップは、黒沢清監督の『トウキョウソナタ』と通じるものを感じましたが、本作の蓮や恵美の街に向ける視線はもっとクールですし、団塚監督のとらえる都市はもっと動的で変化するものですね。
それは単純に主人公である蓮の人物像が街を漂流しているという感覚が強かったので、そういう動的な撮り方を採用しただけですね。今、話に出た黒沢監督の『トウキョウソナタ』は、自分にとっては課題映画みたいなもので、とりあえず、東京の撮り方に困ったら『トウキョウソナタ』はどうだったかなと見直しました。ただ、あの作品、タイトルに東京とあるのですが、実際には東京では撮っていなくて、黒沢監督が映したのも概念としての東京だと思うんです。それに対して、僕だったらどういうことができるかを考えさせられる作品で、あの作品が持っていない新しい感覚をスタッフたちと持ち寄って作ろうとしました。そういう意味での影響を受けている作品です。
その人にしか出せないものを求めたキャスティング
キャスティングで大事にされたことは?
一番重要視したのは、台本のイメージ以上に、その人にしか表現できない、これまで歩んでこられた人生の持ち寄りがあって、その上で芝居をしてほしいということでした。例えば、遠藤憲一さんが演じる高野初は脚本のテキストだけを読むと、ただただマッチョイズムに支配された男性像に見えるのですが、遠藤さんが演じることで初の人物像がポップに見える。ひとつ軽やかになるというか、つかみどころのない人となって、それは遠藤さんにしか出せないものだと思いました。蓮役の主演の黒崎煌代くんも、姉・恵美役の木竜麻生さんも、マキ役の菊池亜希子さんや、蓮の職場の友人であるタクヤ役の中山慎悟くんなど、みなそうです。キャスティングの作業って、最初に決めた方がスケジュール的にダメだったときのために、2番目の候補者を決めていてほしいとよく言われますが、今回は基本的に最初に声をかける人を一人だけ決めて、進めていきました。
家族の誰かが欠けた穴を埋める物語は日本映画では数多く作られていますが、今作は安易に再生の形には向かわないところが斬新です。同時に、10年前の夏編では初に厳しくあたっていた由美子が、冬編では彼の仕事での頑張りを受容する、理解して赦すという方向に変わっていくところを驚きとともに自分ならどうするか問いながら見たのですが、冬編で大切にされたところは?
僕がサービスエリアでの家族の集結、再会、そして初と由美子の語らいの場面で考えていたのは、この一夜が終わったら、もうあの人とは永遠に会えないというシチュエーションにおいて、厳しい言葉を投げかけられるよりも優しくされるほうがしんどいだろうなということでした。映画のあの場面だけ取り出して見ると、由美子が初を赦したみたいな、鍵括弧で語れる1ワードになりうる状況だなと撮っていたのですが、もっと長いスパンで引いてみると、いくら由美子に赦してもらっても彼女は帰ってこないわけで、赦されれば赦されるほど初はこの日以降、苦しい日々が待っているんじゃないか。優しい姿勢で接しられた方が、その後の人生において一生忘れえない傷として残るだろう。その上で、今後の人生をどうやって生活していけるかという問いかけは、ああいうキャリアを築いた人たちにとって必要なことだと考えたからです。
黒崎さんは蓮のことを、ただものを動かしているだけで、何も生み出していない、でも、サービスエリアでの家族の再会を機に、何かものを作り出す方向へとシフトするんじゃないかと話していました。団塚監督の中では、その後の蓮の人生については、頭の隅っこにでもビジョンはあるんでしょうか?
いや、ないです。基本的に映画の脚本に書かれてる以外のことは考えない。その意味で、蓮を演じた黒崎くんの変化がすごいと感じました。この映画、どう締めようかずっと考えて、周囲の反応から、主人公の蓮をどうやらラストで変化させなきゃいけないらしいと。まあ、色々あるなと思っていたけど、最終的にそれまでの蓮はコンビニでおにぎりとかジャンクフードばかり食っている人だったんですけど、あのサービスエリアの一夜を経て、一応、野菜を摂取できるようになった。というぐらいしか、僕は蓮と黒崎くんの変化を思いつけなくて。それで、
蓮、寒空の中、胡座をかいて。セブンイレブンで買った400円するサラダなどを食べている。ランニングやドッグランが蓮の前を通る。
とだけ書いたんですけど、助監督の副島さんから、これまで自分が関わってきた映画の中で5本の指に入るラストのト書きですよって喜んでいたので、だったらよかったと思いました。
スタッフワークについて教えてください。
撮影の古屋幸一さんはベテランですが、音楽を担当している寺西涼さんと音響の岩﨑敢志さんは映画美学校時代の同期で、編集の真島宇一さんも美学校の一つ上の先輩にあたります。在籍中から一緒に映画を作っていたメンバーで、その繋がりが大きかった。音楽に関してお願いしたのは、子供の声を使いたいということ。音楽に神の目線を感じさせたいことと、後半は讃美歌というか、祈りを想起させるイメージのサウンドで、現代風にアレンジしてほしいと依頼しました。
去る5月には第78回カンヌ国際映画祭〈監督週間〉に参加されましたが、そこで得たことは?
カンヌで会った人たちに一番多く言われたことは『次は何を撮るんですか?』。期待してくださっているんだなと感じられたのが一番大きかったです。コンペティション部門にセレクトされている作品を見ると、ほとんどが数か国での共同制作による作品で占められていて、そういう時代に入っているんだなと感じました。
自分の資質を最大限に活かすには、自分の持ちようなのか、スタッフとの協力なのか、資金繰りにおいて国を超えての共同合作は必要であるけれど、それによってのプラスマイナスはあると感じていて、次はどうしようかと。今回カンヌに参加してみて、今後一緒に仕事をしてみたいと素直に感じられるスタッフが世界中に存在するとわかったことが、大きかったです。
今、見えているビジョンはどういうものですか?
自分のオリジナルストーリーしか撮らないようなイメージで見られることが多いですけど、そのあたりは割と自由に考えていて、できるだけたくさんのことをやりたいし、もしかしたら次は映画じゃないかもしれない。ドラマの脚本であったり、広告、MV等にも興味があるので、映画だけじゃなく、チャンスがあればこだわらずにチャレンジしていきたいです。
団塚唯我
Danzuka Yuiga
1998年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学環境情報学部中退。映画美学校修了。在学中は万田邦敏や脚本家の宇治田隆史より教えを受ける。同校修了作品として制作した短編、『愛をたむけるよ』が、なら国際映画祭、札幌国際短編映画祭、TAMA NEW WAVE 等の映画祭で入選、受賞。2022年、〈ndjc:若手映画作家育成事業〉にて、短編『遠くへいきたいわ』を脚本・監督(制作:シグロ)、第36回高崎映画祭等に招待。本作品『見はらし世代』が初長編映画となる。